ガンダムUC & NT
2021.1.1(金) 元旦
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2020-2021はガンダム年越しになった。ガンダム作品で一番好きな「逆襲のシャア」(逆シャア)が大晦日にアベマTVでやっていたので、ついつい見てしまったのがきっかけで、Netflixで続編であるガンダムUC(ユニコーン)18話を徹夜で見た。ユニコーンガンダムはキワモノと思っていたが、お台場に実物があるので、わりと国民的なのかもしれない、と思っての一気見。大晦日に東京は新型コロナ感染者1300人越えがあったので、自宅で大人しくしていようと思ったのも大きい。また、お正月番組を確認したら、NetflixにはないガンダムNTが元旦にBSで放送されるとのことなので、徹夜で間に合わせた。 以下、ネタバレあり。
UC→NTは内容は、悪く言うとオカルト的ではあるが、元々、初代ガンダムのララァ・スーン登場以降、ニュータイプと霊的世界(思念)に関してはガンダムを特徴づける柱の1つなので、そこまで私には抵抗はなかった。むしろアムロとシャアが主役になりえない「逆シャア」以降の一連のガンダム続編を支える大きなテーマとして、一種の神的なものが選ばれたのは理解できる。
UCアニメ18話については、とてもよくできていると思った。わりとあっけなくメインのキャラが死んでいく「逆シャア」よりもバランスがよく、自然に鑑賞することができた。しかも、鬼滅の刃のアニメと同様に、アニメ放送なのに映画のクオリティなので、楽しい。
NTについては、UCの悪く言えば「トンデモ」路線をさらに推し進めることになる。1号機ユニコーン、2号機バンシィ、フェネクスという3つのユニコーンガンダムは、技術が人智を超えるシンギュラリティを体現したものであり、それを支えるのは「サイコフレーム」だ。
このサイコフレームは、コンピューターチップを金属粒子レベルで組み込んだ素材ということで、ナノテクとICTが融合されている。このサイコフレームは「逆シャア」で登場し、アクシズ落としを回避するなど、数々の奇跡をもたらすことになる。そういう意味でいえば、サイコフレームの発明こそが、「逆シャア」を起点とするUCとNTを下支えする通奏低音なのである。じっさい、UC以降に連邦とミネバ派(ジオン)の両方においてサイコフレーム研究開発は禁止される禁断の技術となる。
ひとつ惜しいというか、NTですこしガッカリしたのは、フェネクスのコックピットに主人公のヨナが乗り込んだときに、リタを思わせるものがほとんどないということだろうか。ネックレスの破片はあったが、僕としてはそこにはなんらかの形でリタが乗っていてほしかった。コックピットはあえて何もない空虚な空間だったのだが、リタの霊がフェネクス全体のサイコフレームに乗り移っているのであれば当然なのかもしれない。だが、とすれば、リタの肉体はどの時点で消失したのだろうか。骨さえも残ってないのだろうか。また、フェネクスの補給はいったいどうなっているのだろうか。それもサイコフレームで補給されるということなのだろうか。コックピットに誰も乗っていないモビルスーツ(MS)が超高速で移動したりするのは、やはりすこしUCまでの設定とは異なり、謎が残り、少々の違和感があった。だからそういう意味でもフェネクスは一種の一線を超えた存在ともいえる。
リタに関しては、ほとんど回想シーンばかりで登場し、幼少期の非回想シーンの最初のほうでは顔が現れない。これは予知能力をもつリタを謎めかせ、感情移入をさせないためなのだろうが、もっとリタも3人の主人公の1人として感情移入してもらうために、幼少期から成長期にかけての回想シーンではなく、通常のストーリーとして登場させてもよかったのではないだろうか。もっともこれについては趣味の問題かもしれない。
とはいえ、UCのヒロインであるミネバに比べて、リタの存在は儚過ぎる。それがまた本作の特徴であり魅力なのかもしれないとは思いつつも、追憶や霊的な存在としてではなく、生身の存在としてのリタを観たかった。ただ、これについては、UCのようにさきに映画で出しておいて、あとでTVかオンデマンドアニメ版で長くして出す、ということもありうるので、ストーリー構成の仕方次第のところもあるのだろうから、ぜひ制作サイドには検討してほしいとも思う。
加えて、ヨナが最後にフェネクスを降りてしまうのは不自然に感じた。なぜあれにそのまま乗って、持ち帰らなかったのだろうか。そもそもフェネクスはリタ(とミシェル)の霊が動かしているから、人智を超えているので人間界にはもって帰るべきではないということだろうか。
最後によかった点としては、やはり最後のバナージ・リンクスだろうか。バナージについても、リタ同様に、もっと活躍してほしかったとも思うので、上記の長くするバージョンでは制作サイドにはぜひ検討してほしいと思う。バナージはUC以降のアムロ・レイ的なポジションになるわけだから。
追記(2022.1.1)
1年ぶりに一気見。今回は事前にウィキペディアで復習していたので、事実関係がちゃんと頭に入っており、理解が行き届いた。1回観ただけではしっかりとは理解できないので、二度は見るべき物語だ。
社会、組織、人間、技術といった社会的事象に関する情報が、ガンダム作品では圧縮されて作品になっている。いわば象徴的価値だ。圧縮のされ方は作品によってもちろん異なるから、世界全体にどこに力点をかけつつ圧縮するのか、いわばどのアングルでどのレンズで、どこに焦点を置くかで、もちろん作品は一つ一つ違ってくる。しかし目指されているのは、技術も含めた人間や社会へのトータルな理解である。そういう総合性が、ガンダム作品を難解にはしつつも魅力的にしている。
特にUCは、宇宙世紀0001年から0096年というほぼ100年間の集大成でもある。ジオン・ズム・ダイクン(シャアの父)からジオン誕生、一年戦争、三度に渡るネオ・ジオン抗争というジオン史の総括でもあり、本作は非常に重要な作品となっている。
ラピュタやナウシカといったジブリ作品でも同様ではあるが、ガンダムのほうが戦艦ヤマトからのアニメカルチャーで日常的である。
私はノーストーキョー(東京北側)からストリートピアノを梃に、新しい文化を作ることに注力しているが、文化的なものというのは、多くの場合、情報の圧縮を伴っている。映画、ドラマ、マンガ、アニメ、芝居、ゲーム、小説といったものは、それぞれの情報の圧縮のされ方の違いともいえる。世界全体を表象すること、つまり「一点突破全面展開」というある視角から社会全体を掴み取るような迫力があるからこそ、作品は世界理解であり、それじたいが価値ある情報となる。これは分野横断とか総合ともいわれる試みという側面ももつ。文化的な試みとは、こういった総合的な情報の創出であり、創発なのである。もちろん映画やOVAに代表される、こういった高度に複雑なコンテンツは、